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先人達の想いを紡いでいく

こんにちは!

残りいよいよ3日をきるなかで・・こうして引き続き多くの皆さまからご支援等々賜りますこと大変ありがたく、また御寄せいただえける応援メッセージからも心音(こころね)が響き伝わりただただ大変感動しております。本当にありがとうございます。


先日降った雪もすっかり溶けて、寒さはありますが少しずつ春めいた陽気に包まれています。

さて、今日は我々の里、坪内らしさを少しでも垣間見ていただきたくご紹介させていただきます。


|| 先人達に想いを馳せる


昨年夏に何回かにわけて船岡山の実地調査、木の本数等々の調査で山に登ってきましたが、山の中からいろいろと時代を遡り先達たちが残してくれたものがいろいろと見つけられるのも楽しみのひとつです。



まずは何よりも、これら樹木たち。こうして大きく育った桧たちも2、3世代前の先人達が植えたもの。『どういう想いで植えたのかにゃぁ』『その時の作業はどういうものだったのかにゃぁ』『こうして大きく育った木を見てどう思っているのかにゃぁ』など、木々を仰ぎ見ながらいろいろと先人達へ思いを寄せてしまいます。

また一方で、山の道の途中にはこういう石もところどころに。



本当にそうであるかは定かではないところもありますが、こういう目立っておいてある石は、山の地権者の境界線の目印としておいてあることも。




代表二人も山をのぼって頂上手前にあるこの石の前であれこれ話していましたが、これも『どうしてここにこの向きで置いているのかにゃぁ』と。この石の向きだと境界線もこっちからになってしまうけど、『何か意味があってこっちの向きにわざと置いているのかにゃぁ』と。

先人達がどういう思惑、想いで行っていたのかいろいろと想像しながら、歩くそれもまた楽しいのです。

|| 伐った後も



そして、ところどころにこういう株もあります。いつ伐った時のかは断定できないのですが、だいぶ風化しているところから10数年前に伐られたのかなと。

木を伐る際は、根っこから伐るのではなく、木の太さや状況により地表から残す高さも変わりますが、数十センチほどの株が残ります。



そして、その株はそのままにしておくことで、だんだんとこうして腐食しながら土に還っていくのです。

|| 木を無駄なく

一方で、伐った後のこの株を無駄なく利用するかのように、この株を使って“”を彫り販売している方達も多くいらっしゃいました。




まるで今にも羽ばたいてきそうな躍動感のある鷹ですが、これらは実際に彫られた方たちのご自宅に残っています。それぞれ、鷹の表情や彫り方もまた違ったりして個性がでていますよね。

|| この地ならではな

そして、船岡山ではこの地ならではと思う一面があります。


それはずばり、「(さかき)」の木です。



榊の木が群生しているといよりは、桧や杉などの樹木の間にひっそりと生えています。

これらは、自然に植生した榊。この姿にも、先人達の想いを感じ取ることができます。





なぜなら、以前に「下刈り」についてご紹介させていただきましたが、植樹をしたあとはきちんとその苗木が育つように刈取りをしていくのですが、先人達も榊の木はそのまま伐らずに残していたのでしょう。

それはこの坪内の里というのが天河神社が鎮座されているからこそ。



我々もいよいよ今年の10月頃から船岡山の樹木を伐っていきますが、これら榊の木はこのまま残していく予定でいます。それが、またこの里の地に残っている自然な風習の一つでもあるのです。

一方で、榊の木に限らず「(しきみ)」も自生しています。そして、この地では方言なのでしょうか「こうばな」と呼んでいます。




昨年夏に下刈りを手伝った際も、代表の西岡から「“こうばな”だけは刈らないように気をつけて」と言われてました。ピンポイントで樒を撮影できていなかったのですが、船岡山の麓らへんにはけっこう樒が生えています。

これもまた西岡が刈り取らずに残しているように、先人達も意図して残していたのでしょう。

そして、神社の神事などに使われる「榊」と仏事でつかわれる「樒」が山にこうしてたくさん自生して残っているのも、天河神社が神仏習合のならいが残っているということ、また、山とこの里の地の先人達の暮らしが彷彿とさせてくれます。




我々も残すべきところは残していくなかで、これらの風習も理屈ではなく、自然にできる精神的なものできちんと語り継いでいく。それがきっと10年先、50年先、100年先も、我々がたとえこの世にいなくてもしっかりとこの魂というのでしょうか、精神というのがこの里の地に残り、山を守りそしてこの里の地の風習、精神性も守っていけるのだろうと信じています。

~今日の一枚~


▲前述した彫りの鷹の置物。

当時はみんな自分たちの手で実際に株を彫り、磨き、削り、彫りをしていたそうです。ちょうど高度経済成長期前までの昭和30年~40年頃がピークだったそうです。今はもう彫っている現役の方はいらっしゃらないのですが、実際に作業をしていた方がまだいらっしゃるので、その時のお話しもきちんと記録に残していきたいなと思っています。


また、今回ところどころに語尾の最後に「~にゃぁ」と書いていますが、これは“天川弁”です。坪内の里でも、村民同士が集まるとみんな語尾に「~にゃぁ」をつけて話していて、聞いているととてもかわいらしくちょっとほんわかしてしまいます。

しかし、この天川弁ももしかすると自然に使える世代ももうここで終わってしまうのではないかと危惧しているところも。


ここ坪内の里で生まれ育った30代は既にもうこの独特の天川弁は使わず、親世代が使っているのを耳にしているだけだと。


寂しい半面、これもまた時代の流れなのでしょうか。。!


カメラを構えてしまうと村の人たちも恥ずかしがって天川弁で話さなくなってしまうので、自然にその会話も記録にできるようにして、ぜひそれはこの地に残していきたいですし、ぜひこうして応援していただいた「斎庭之衆」の皆さまにもご覧いただきたいなとも思っていたりもしています。^^



(ついでに、同じ天川村でも、ここ坪内と洞川地区とではまた全然違う方言になります。洞川の男衆の会話を聞いていると、さっぱり何言っているのかわからない、と思ってしまうほど同じ村でも方言が違う、これもまた興味深いところです!)

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